ここがヘンだよ川崎市〜神奈川税務署員リンチ致死事件〜



昭和20年8月14日にポツダム宣言を受諾すると、日本の統治下にあった一部の台湾人と多くの朝鮮人が戦勝国を自称し、
所謂やりたい放題の状態にするように陥りました。しかも、当時の日本は戦争で疲弊しきっていて抵抗できない状態でした
から、いわゆる朝鮮進駐軍の為すがままでした。

日本全国が混乱している最中、川崎はどうなっていたのでしょうか。

川崎市には飯場、工場、歓楽街などが多くあり、平たくいえば「ガラが悪い」土地柄でしたから、更にタガが外れたらと想像
するだけで恐ろしいものがありますが、正にその通りの図となりました。
特に酷かったのがカストリ(密造ドブロク)でした。本来、カストリとは酒粕から作られる焼酎の事なのですが、大東亜戦争
終結後に出回っていたカストリに関しては粗悪ドブロクを指します。ヤミ米や芋のしっぽ、かき集めた麦…これらのブレンド
だろうと想像されますが、実は確固たる資料は残っていません。これら食物性のものを使っているうちはマシでしたが、遂に
禁断の果実に手を伸ばし始めました。
メチルアルコールです。メタノールとも呼ばれ、燃料用(例:アルコールランプ、内燃機関用
燃料)
として使われるのが常ですが、何とこれを飲み始めたのです。更にタチが悪い事に、在日朝鮮人を主とする住民は
飲用(?)メタノールを販売し始めたのです。川崎は言うまでもなく工場、それも大工場が多い地域です。そこで手段を問わず
様々な方法でメチルをタダ同然で入手し、製造量が更に急増しました。こうして、正規酒の生産量が34万3,000klだったのに
対し、密造酒はそれを遥かに上回る50万2,000klも生産されたのです
(昭和22年9月当時)

当局は、非常に悩まされました。徴収すべき酒税が激減し、食用の米までカストリに転用されたため米不足が加速した
からです。また、メタノール製焼酎は当然ながら飲用に適さず、爆発したり失明したり、中には死者まで出る有様でした。
故に、メタノール酒は「目散る」と揶揄されたほどです。余談ですが、当時のカストリは3合飲むと目がつぶれるといわれ、それに引っ掛けて3号出すと潰れる=廃刊する雑誌をカストリ雑誌と呼ばれたりしていました。

GHQは、当初この件に関しては黙認…というか放っておきました。日本人同士が潰し合えば手間が省ける、という打算があったかもしれません。ところが、被害がGHQの兵士にも至り、危機感を募らせたGHQはカストリの摘発に乗り出す事になったのです。こうした状況下で神奈川
(現:川崎南)税務署で間税課長の職にあった端山豊蔵は検事2名、警察官206名、更にはMP(憲兵)まで動員して、櫻本町(現:川崎区桜本)にて摘発にあたりました。この、昭和22年6月23日に行われた大摘発では100余名を検挙、ドラム缶70本超の酒200kg弱の原料(麹や米など)、他には竈やボイラーなどの器具を押収しました。これらを全て押収するのに7時間もかかったほどです。これで終われば話が纏まりますが、これから本当の悲劇が始まるのです。

同日21時過ぎ、帰宅中の端山税務官は京浜
(現:京急)川崎駅付近で7人の朝鮮人から集団リンチを受けたのです。「打つ、
ける、なぐるの暴行をうけてこん睡」にさせられ
(昭和22年6月25日。 神奈川新聞)、その時に受けた頭部と腹部の内出血が元で
3日後の昭和22年6月26日午前11時30分に亡くなりました。48歳という若さでした。
その後、8月7日午前3時に武装警官86人による逮捕劇が展開されました。無論すんなりに縛につくはずもなく、街を縦横に
逃げ回られた挙げ句、警官による威嚇発砲が行われ、漸く逮捕に至りました。その後、主犯たる金本溶詰
被告人が懲役
7年、ほか懲役6年以上の刑に服した被告人がいない事から、今回の事件は殺人罪としてではなく傷害致死事件として
裁かれた事が判ります。残念な事ではありますが、リンチの後に殺害する意思とアクションがなかった事などから殺人罪
ではなく傷害致死罪が精一杯だった事が伺えます。
しかし時の片山内閣は、この件を単なる密造酒事件としてだけではなく喫緊の経済対策問題として捉え、酒税法に加え
食糧管理法も絡めて関係省庁が協力する旨、閣議決定がなされました。また端山税務官の慰霊祭は全国財務労働組合
との合同で、同年7月5日に行われました。参列したのは栗栖赳夫
蔵相、石橋湛山前・蔵相、池田勇人大蔵事務次官といった
早々たるメンバー。ちなみに石橋
と池田は、後に首相の座にまで昇り詰める事になります。そして昭和26(1951)年
6月26日、端山税務官の命日に合わせて異例が大手町に建立されました。顕彰碑の碑表は池田勇人
、碑文は阪田泰二
東京国税局長によるものです。なお、碑文は
こちら をご覧下さい。


この件が
『在日の地図〜大韓棄民国物語〜』(山野車輪著。オークラ出版)で紹介され、非常に衝撃を受けました。
そして同志を募り
第63回忌・端山豊蔵税務官慰霊祭を開催したのですが、予想を遥かに上回る人数と熱気の中での
ものでした。この時、「このような事があった、そして、乱れきっている川崎を、我々国民の手で何とかしなければ
ならない」という声が挙がり、クリーンかわさき連絡会が誕生したのです。




                                        
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